エックハルトトールの教えの背景にある【非二元・不二一元論】を解説

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非二元(ノンデュアリティ)とは

とおるです。

エックハルトトールの教えには、さまざまな哲学や思想などのエッセンスが凝縮されています。

エックハルトトールの教えのバックグラウンドには、非二元もあります。

今回は、非二元、そして不二一元論について解説します。

はじめに、エックハルトトールが”非二元”のことを語っている文章を載せておきます。

「大いなる存在」は、主体と客体がひとつに溶け合ったものだからです。
出典:『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』P146

目次

非二元(ノンデュアリティ)とは

非二元(ノンデュアリティ)とは


非二元(ノンデュアリティ)とは、読んで字のごとく”二元ではない”ということです

相対するものがないから分裂することはなく、2つではなく1つであるともいえます。

よく聞く言葉では、Oneness(ワンネス)ですかね。

数年前からスピリチュアル業界で、
非二元(ノンデュアリティ)の一大ムーブメントがありました。

今も波にのってるのかな?と思いきや、何かを教えるわけでもなく、

「私はいない。あなたもいない。もともと何もない。悟る人なんていなし。悟りなんかない」

のように極端な主張をしている人も一部見受けられます。

もちろん真実といえば真実にも聞こえなくもないですが、はじめからそれを言われたら、

「・・・で??・・・それって虚無では??」

となりますよね。

あまり批判をしたいわけではないので、私が思う非二元の本流・源泉の教えをお伝えします。

非二元は不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)

いわゆる今流行っている非二元は、元をたどると、不二一元論に行きつくと思ってください。(賛否はあると思います)

不二一元論について、Wikipediaから引用します。

不二一元論(ふにいちげんろん、サンスクリット語अद्वैत वेदान्तAdvaita Vedāntaアドヴァイタ・ヴェーダーンタ、Kevalādvaita)とは、インド哲学ヒンドゥー教ヴェーダーンタ学派において、8世紀のシャンカラに始まるヴェーダンタ学派の学説・哲学的立場である。これはヴェーダンタ学派における最有力の学説となった[1]。不二一元論は、ウパニシャッド梵我一如思想を徹底したものであり、ブラフマンのみが実在するという説である。
出典:Wikipedia

上記の”梵我一如“という思想について説明します。

梵(ブラフマン)とは、”宇宙の根本原理”、あるいは真理ですね。エックハルトトールのいう”大いなる存在(Being)”と同じです。

我(アートマン)とは、”個人の本質”、自分の体の中にある魂のようなものです。

梵我一如はブラフマンとアートマンが同じものだと悟り、永遠の至福を得るという思想です

不二一元論では、宇宙を支配する原理であるブラフマンただ一つが実在していて、それ以外は幻(マーヤー)であるとしています。

ちなみにこの不二一元論を唱えはじめたとされるシャンカラは、

“仮面の仏教徒”とも言われており、大乗仏教の唯識の思想と類似する点があるようです。

このシャンカラの不二一元論が18世紀最大の聖者であるラマナ・マハルシにも受け継がれています

エックハルトトールと非二元の聖者ラマナ・マハルシ

エックハルトトールと非二元の聖者ラマナ・マハルシ


エックハルトトールは、シャンカラよりも圧倒的にラマナ・マハルシの名前を多く用います

ちなみに、ラマナマハルシ自身は特定の思想や哲学を教えているという思いはなくて、ただ個人の体験を語っていたそうですね。

ラマナマハルシは、ブラフマンの意味合いの言葉を”真我”として多く使っています。

また、ラマナマハルシは言葉での教えより、”沈黙・静寂”が1番パワーがあると言っていたようです。

彼はまた「沈黙」という言葉を用いて、真我が妨げることのない平和と完全な静寂という沈黙の無心状態であることを示した。
出典:『あるがままに』P19

来訪者の質問にラマナマハルシは、沈黙しただ見つめることで気づきを導いたこともあるというくらいです。

エックハハルトトールも、沈黙、静寂(Stillness)という言葉を好んで使っています。

「静寂は神の言葉で、他はすべてのその下手な翻訳に過ぎない」という言葉がある。
出典:『ニュー・アース』P274

言葉でいくら真理を示そうが、それは月を指す”指”であり”月そのもの”ではないでない、ともよく言っていますね。

また著書『Stillness Speaks』は、タイトルから沈黙・静寂(Stillness)です。

※エックハルトトールの”静寂”についての詳しい記事はこちら

話が少しずれましたが、ラマナマハルシの教えは著書を読むと非二元そのものだと感じます。

質問者 もし真我そのものが気づいているのなら、なぜ私は今でさえそれに気づかないのでしょうか?
マハルシ そこに二元性はない。現在のあなたの知識は自我によるもので、それは相対的でしかない。相対的な知識は主体と客体を必要とする。それに反して、真我の自覚は絶対的であり、対象を必要としない。
出典:『あるがままに』P21

非二元を受け継ぐの弟子たち

非二元の教えがラマナ・マハルシからニサルガダッタ・マハラジや、プンジャジ(通称パパジ)に継承されました

ニサルガダッタ マハラジは、

  • ラメッシ・バルセカール
  • セーラー・ボブ・アダムソン
  • ラマカント・マハラジ

などの弟子たちがいます。

プンジャジは、

  • ガンガジ
  • ムージ
  • ニーラジャ

などの弟子たちがいます。

今紹介した人たちは、いわゆる聖者のような修行をしていたわけではなく、一般の方たちです。

一般人でも目覚めることができるのが非二元なんですね。

ガンガジは、以下のように言っています。

現代は、「普通人の覚醒」の時代です。
出典:『ポケットの中のダイヤモンド』P31

エックハルトトールは、ガンガジの著書『ポケットの中のダイヤモンド』の序文を書いています。

これはエックハルトトールがとてもガンガジをリスペクトしているということでしょう。

また、ガンガジの著書を読むとエックハルトトールの教えと重なる箇所がいくつもあります。

意識とはすなわち静寂です。そしてあなたはすでに、この静寂なのです。
出典:『ポケットの中のダイヤモンド』P121

意識とは”大いなる存在(Being)”と同じ意味です。

あなたはすでに大いなる存在(Being)であるということですね。

自分と大いなるものが分離していないというのは非二元ですね

思考が邪魔して大いなるものに気づけないのだと。

大いなるものは自分だということに気づかないと、例えていうなら、ポケットの中の宝石に気づかずに一生を終えることになります。

今一部で流行りのノンデュアリティと違うのは、私も何もないのではなく”大いなる存在(Being)”は在ること、ですね。

エックハルトトールも尊敬する非二元の教師たちの本

エックハルトトールも尊敬する非二元の教師たちの本


エックハルトトールがリスペクトする非二元の覚醒者たちの本が、
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下位に行くほど現代に近づくので、言葉などはわかりやすいと思います。

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まとめ

この記事では、エックハルトトールの教えのバックグラウンドにある、非二元(ノンデュアリティ)・不二一元論について解説しました

非二元とは2つでなく1つであることでしたね。

梵我一如の思想も覚えておくと、非二元の本やエックハルトトールの本も理解しやすいと思います。

「エックハルトトールの教えと非二元って似てる」

って思っていた方は、非二元についてなんとなく理解していただけたのではないでしょうか。

エックハルトトールは非二元だけでなく、他にもさまざまな目覚めの教えから、エッセンスを取り入れています。

それらについてはまた紹介しますね!

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